2009年06月14日

オリーブ・オイル(オリーブ油)はオリーブの果実

オリーブ・オイル(オリーブ油)はオリーブの果実から得られる植物油。阿列布油と当て字することがある。

主に地中海に面した地域(イタリア、スペイン、ギリシャ、マシュリクなど)で好んで使われる。食用のほか、化粧品、薬品、また石鹸などの原料としても用いられる。これらの地方では単に油といえばオリーブ・オイルをさすことが多い。酸化されにくいオレイン酸を比較的多く含むため、他の食用の油脂に比べて酸化されにくく固まりにくい性質を持つ(不乾性油)。

特に、エクストラ・バージン・オイルと呼ばれるものは、香りと味が良質で高級とされる。ワインの産地にワインの文化があるように、オリーブ・オイルの産地にはオリーブ・オイルの文化があると言っても過言ではない。ギリシア語での語源が「喜び」と共通することから正教会では斎の対象となる。

また標本製作でホルマリンなどの防腐剤が無かった頃はオリーブ・オイルを使って保存・固定していたこともあった。

2006年3月27日、アメリカ合衆国の健康専門月刊誌『ヘルス』による世界の5大健康食品が発表され、スペインのオリーブ油、日本の大豆、ギリシャのヨーグルト、インドの小粒の豆類、韓国のキムチの5品目が選出された。

種子や果実から採取される植物油の多くが加熱工程や溶剤抽出工程を経て得られ、特にほとんどの場合植物組織から油を分離するのに加熱工程が不可欠であるのに対し、オリーブ・オイルは生の果肉から非加熱で果汁を絞って放置しておくだけで、自然に果汁の表面に浮かび上がり、これを分離することで得ることができる。オリーブと同様に果肉から多量の油が得られるアブラヤシの果実からパーム油を採油する場合、原産地であり伝統的栽培地帯である西アフリカの熱帯雨林地帯における伝統的手法でも、パーム油は飽和脂肪酸を多く含むため常温では固形であり、砕いた果肉を煮沸しなければ抽出できないのと大きな違いであり、この点がオリーブ・オイルの最大の特質となっている。つまり、ワインが本来、限られた季節にしか得られないブドウの果汁を一年中飲むことができる保存果汁としたものとして発展したのと同様、同じ地中海文化の中で利用が発展したオリーブ・オイルも、正に油という形で保存された生の果汁としての性質を、食品化学的にも、文化的にも、色濃く持っている。

今日では収率を上げるため、果実をすりつぶして絞った果汁を遠心分離機にかけて、効率よく採油している。伝統と品質を重んじる採油所では、この果実のすりつぶしに伝統的な石臼が用いられているが、工業的に大量に処理する採油所では機械による粉砕が行われている。石臼による粉砕の場合、適度に荒く砕かれた種子によって果汁を絞るときに粉砕された果実が過度に圧搾されるのが妨げられ、余計な雑味の少ない良質な油が得られるといわれている。このオリーブ絞り用の石臼は、東アジアの穀物粉砕用の石臼のように溝を切った二枚の石の円板が水平に重なり合って回転し、磨り合う形態ではなく、巨大な石の皿の上で垂直に立てられた石の円板が、車輪のように転がりながら円運動をする形態のものである。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争


こうして果汁から遠心分離などによって直接得られた油をバージン・オイルと呼び、その中でも果汁としての香りが良好で油としての品質も高いものを特にエクストラ・バージン・オイルと呼んでいる。

さらに今日では果実に含まれる油を無駄なく回収するため、果汁を絞った絞りかすからも溶剤抽出によって油が採取されている。こうして絞りかすから溶剤抽出された油や、食用に適さない品質の悪いバージン・オイルを精製して得られた味や香りに乏しい油を、中程度の品質のバージン・オイルとブレンドして作られているのが、単なるオリーブ・オイルとして販売されているものである。

また、オリーブの種子から溶剤抽出によって得られた油をオリーブ核油と呼んでいる

2009年05月29日

豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、家康は京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。

天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任され、武蔵大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴姓も与えられた。その後、家康は北条氏と縁戚関係にあった経緯から、北条氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなど秀吉と北条氏との仲介役も務めたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉は北条氏討伐を開始する。家康も豊臣軍の一軍として参戦した(小田原の役)。

なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の関東移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。

その後、家康は秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の五カ国から、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・下野国・上総国・下総国の七カ国に移封された。これは150万石から250万石への類を見ない大幅な加増ではあるが、徳川氏にとっては縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党などによる不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げる訳にもいかず、石高の上昇の割には実収入の増加も見込めない状況であった。しかし家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。
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関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに四公六民という北条氏の定めた税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げがなされるまで継承される事となる。

【家康によって配された有力家臣たち】

上野国
箕輪(後に高崎) 12万石 井伊直政
館林 10万石 榊原康政
厩橋 3.3万石 平岩親吉
白井 3.3万石 本多康重(ただし、1.3万石は父広孝分とされる)
宮崎(小幡) 3万石 奥平信昌
藤岡 3万石 松平康貞
大胡 2万石 牧野康成
吉井 2万石 菅沼定利
総社 1.2万石 諏訪頼水(頼忠説もある)
那波 1万石 松平家乗
沼田 2.7万石 真田信幸
下野国
皆川 1万石 皆川広照
下総国
矢作 4万石 鳥居元忠
臼井 3万石 酒井家次
関宿 2万石 松平康元
古河 3.3万石 本多康重
山崎 1.2万石 岡部長盛(康綱説もある)
蘆戸(阿知戸) 1万石 木曾義昌
守谷 1万石 菅沼定政
多古 1万石 保科正光
佐倉 1万石 三浦義次(久能宗能説もある)
岩富 1万石 北条氏勝
武蔵国
岩付(岩槻) 2万石 高力清長
騎西(寄西) 2万石 松平康重
河越 1万石 酒井重忠
小室 1万石 伊奈忠次
松山 1万石 松平家広
忍 1万石 松平家忠
羽生 1万石 大久保忠隣(2万石とも)
深谷 1万石 松平康忠
東方 1万石 戸田康長
本庄 1万石 小笠原信嶺
阿保 1万石 菅沼定盈
八幡山 1万石 松平清宗
上総国
大多喜 10万石 本多忠勝
久留里 3万石 大須賀忠政
佐貫 2万石 内藤家長
鳴戸(成東) 2万石 石川康通
相模国
小田原 4.5万石 大久保忠世
甘縄 1万石 本多正信
伊豆国
韮山 1万石 内藤信成
文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。渡海せずに済んだのは、小田原の役で先鋒を務めたための優遇措置との見方もある。「際限なき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵で渡海を免れたために、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた[8]。しかし、渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。

文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降は開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[8]。

慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老の一人に家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。

2009年04月25日

はな

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花、華 - 植物の器官のひとつ。
鼻 - 動物の器官のひとつ。
洟 - 鼻腔内から出る粘液。鼻水。
端 - 「最初」や「先端」を意味する日本語の名詞。
ハナ、鼻は競馬の着差のひとつ。順位に差があるものの内では最小の着差。→着差 (競馬)を参照。
ただし、同じく競馬における用語である「ハナを切る」、「ハナから」などの表現は「端」に由来する言葉である。
鼻部は漢字の部首。
日本語の女性名。「花」「華」に由来することが多い。
はな (タレント) - 日本の女性タレント。
近衛はな - 日本の女性タレント。旧名・目黒ゆかこ
ハナ - 仮面ライダー電王の登場人物
漫画・アニメなど、架空の人物のキャラクター名としても使われる。→ハナちゃん参照
ハナちゃん (おジャ魔女どれみ) - アニメ「おジャ魔女どれみ」の登場人物。彼女は巻機山花(まきはたやま はな)と名乗ったこともあった。
(??) 韓国・朝鮮語で、「ひとつ」を表す数詞(固有語)。
韓国・朝鮮(北朝鮮)系の各団体で、これに由来する名称が使われることがある。
ハナ信用組合 - 日本の在日朝鮮人系の信用組合。
ハナ銀行 - 韓国の銀行。
(Hana)アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島にある都市。→マウイ島を参照。
(Hannah) 英語の女性名。ハンナと表記することもあるが、原音はハナのほうが近い。ハンナも参照。
(Hana) チェコ語の女性名。
ハナ・ソークポヴァ - チェコ出身のファッションモデル。
ハナ・マンドリコワ - チェコスロバキア出身の元女子プロテニス選手。
姓として使われることもある。

2009年04月09日

田楽(でんがく)

田楽(でんがく)は、日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。平安時代中期に成立した。「田植えの前に豊作を祈る「田遊び」から発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。

1096年には、京都の人々が田楽に熱狂することがあり、天皇にも貴族たちがその様をみせた。永長の大田楽という(大江匡房「洛陽田楽記」)。平安後期には寺社の保護のもとに座を形成していった。田楽を専門に躍るものを田楽法師と言う。猿楽よりも人気を得ていた時代もあった。

鎌倉幕府の執権北条高時は田楽に耽溺したことが「太平記」に書かれており、室町幕府の将軍足利義持は増阿弥の芸を好んだ。大和猿楽の興隆と共に衰えていったが、現在の能の成立に大きな影響を与えた。世阿弥は「当道の先祖」として田楽から一忠(本座)、喜阿弥(新座)の名を挙げている。

郷土芸能 [編集]
現在までには、びんざさらを使う躍り系の田楽と、擦りささらを使う田はやし系の田楽とに分かれてきた。 躍り系の田楽には、豊穣を祈念するものと、魔事退散を祈念するものとがある。

東京都・王子・王子田楽衆、佐賀県・川久保、福島県・勿来、秋田県・象潟、秋田県・八幡平小豆沢などには稚児が演じる躍り系の田楽がある。

文化財指定
2006年現在、以下の24件が民俗芸能の田楽の分類で、重要無形民俗文化財に指定されている(指定日 都道府県)。

秋保の田植踊(1976年5月4日 宮城県)
板橋の田遊び(1976年5月4日 東京都)
西浦の田楽(1976年5月4日 静岡県)
藤守の田遊び(1977年5月17日 静岡県)
睦月神事(1978年5月22日 福井県)
八戸のえんぶり(1979年2月3日 青森県)
山屋の田植踊(1981年1月21日 岩手県)
花園の御田舞(1981年1月21日 和歌山県)
磯部の御神田(1990年3月29日 三重県)
石井の七福神と田植踊(1995年12月26日 福島県)
田原の御田(2000年12月27日 京都府)
塩原の大山供養田植(2002年2月12日 広島県)
御宝殿の稚児田楽・風流(1976年5月4日 福島県)
水海の田楽・能舞(1976年5月4日 福井県)
那智の田楽(1976年5月4日 和歌山県)
吉良川の御田祭(1977年5月17日 高知県)
三河の田楽(1978年5月22日 愛知県)
住吉の御田植(1979年2月3日 大阪府)
下呂の田の神祭(1981年1月21日 岐阜県)
杉野原の御田舞(1987年12月28日 和歌山県)
隠岐の田楽と庭の舞(1992年3月11日 島根県)
安芸のはやし田(1997年12月15日 広島県)
白鬚神社の田楽(2000年12月27日 佐賀県)
都々古別神社の御田植(2004年2月6日 福島県)

食べ物 [編集]
料理の田楽については、味噌田楽を参照のこと。田楽の芸に高足というものがあり、竹馬に乗るようなものだったので、これに由来する。

「福山田楽」という、お餅にきな粉をまぶした和菓子も存在する。

おでんは煮込み田楽より派生した料理である。

イタ飯 タップ ナビトーチ レザー ひなづる メンド オラト 若き獅子 スイセン お山 シャシー フェタミン ブルージー ハリファ シンガ マニュ チリ バカンス スタバ ピアプ プラス シュード チェス シャトル ブレン プライス ビング 風神雷神 パライパ リンプ フォッ サラバード トシン バンド チロル もうげつ ラザニ ルサロ もみがら プルーフ アップ セクター ハーベ ローション インター ザクロ ブロカ ジェラー モルダビア ファー

2009年03月25日

車両基地・車両工場・車両検修場

所有する工場・車両基地 [編集]
現在も業務を行っている
武蔵丘車両検修場
小手指車両基地
武蔵丘車両基地
横瀬車両基地
上石神井車両基地
南入曽車両基地
玉川上水車両基地
白糸台車両基地
山口車両基地
現在は業務を行っていない
所沢車両工場
所沢車両管理所(貨物)
保谷車両管理所

車両を製造した企業(保線車両などを除く) [編集]
現有車両
東急車輛製造
日立製作所
新潟鐵工所(現・新潟トランシス)
過去の車両
川崎造船所、川崎車輛(現・川崎重工業)
日本車輌製造
木南車輌製造
日本鉄道自動車工業(現・東洋工機)

留置線・場所 [編集]
保谷
清瀬
所沢
狭山ヶ丘
フリーパス [編集]
西武鉄道は、沿線に秩父や川越といった有名観光地があり、観光客向けに「フリーパス」を発売している。

秩父フリーきっぷ
秩父漫遊きっぷ
小江戸・川越フリークーポン
奥多摩ハイキングフリーきっぷ
西武鉄道は、2003年に小田急電鉄と業務提携を結んでいることから、小田急線で発売している各種フリーパスも発売している。また、特典には西武線乗車駅から西武線西武新宿駅の往復乗車券が足されている。以前は自動改札機が通れず、有人通路を通る紙の切符だったが、1999年から磁気化された。

箱根フリーパス・箱根ウィークデーパス
江の島・鎌倉フリーパス
また、山手線西側に発着する鉄道会社としては、京王電鉄と共に東京メトロ線内フリーの“○○東京メトロ”パスの提携がない。

提携など [編集]
東京地下鉄 - 西武有楽町線を経由し池袋線と有楽町線、副都心線が相互乗り入れ。また、新宿線と東西線との乗り入れ構想があるが、現時点で公式発表はなされていない。
東京急行電鉄 - 2012年を目処に東京地下鉄副都心線を経由し東横線(横浜高速鉄道みなとみらい線を含む)とも相互乗り入れを行う予定。
秩父鉄道 - 池袋線・西武秩父線から秩父本線長瀞及び三峰口まで片乗り入れ。
ファミリーマート - 西武鉄道との間でフランチャイズ契約を結び、共同で駅売店TOMONYを出店。
横浜アリーナの株式16.806%を保有している。
姉妹会社であるプリンスホテルが京浜急行電鉄の株式を、京浜急行電鉄が親会社である西武ホールディングスの株式をそれぞれ持ち合っている。

ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー

2009年03月09日

マーリーチャ

マーリーチャ(Mārīca)は、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するラークシャサ(羅刹)。スンダとターラカーの子。変幻自在で魔術に長け、鹿を好んで喰らうが、あるいは自身が鹿に化けて狩を楽しむクシャトリヤらを食い殺すとされる。

もともとはヤクシャ族に属していたが、父スンダが聖仙アガスティヤに滅ぼされたとき、ターラカーとともに復讐しようとしたが、逆に呪われて、悪魔に変えられた。

あるときマーリーチャはスバーフとともに聖仙ヴィシュヴァーミトラの供犠祭を妨げたことがあった。彼らは空から祭壇に血肉を振りまき、祭祀を台無しにした。しかしヴィシュヴァーミトラはアヨーディヤの王子ラーマに供犠祭の守護を依頼した。そのため再び彼らが空に現れてヴィシュヴァーミトラを邪魔しようとしたとき、ラーマの矢によってスバーフは殺され、マーリーチャは海に落とされた。
ステンレス トマホーク バスク ダンプカー スポード プラーク スタミナ メード オーダー ケーブル 浮き桟 ミシガン マイカ トレビ レーン ベニトアイト リップ シェフ コムサット スプラ チオノ タイト サフー ナウシカ パラレル マッカー しらさぎ ミュージア カフェオ バート ベリー レガシー きくすい ジェジェ ダイオプ チャツ フレンチキ ソフト トラコーマ アンデス スエズ 五節の舞姫 ギョーザ ステミン イバル オード ラップ ローマ フェルミ ヘマタ

その後、マーリーチャはラーヴァナがシーターをさらう手助けを頼んできたとき、彼はすでにラーマの武勇について知っていたので、ラーヴァナを思いとどまらせようとした。しかし結局はラーヴァナを援助することになった。マーリーチャは銀色の斑紋のある金色の鹿に化け、シーターの周りで跳びはねた。シーターはすぐにその美しさに魅せられ、ラーマに鹿を捕らえるようせがんだ。しかしラクシュマナは悪魔が化けているのではないかと疑った。そこでラーマはラクシュマナをシーターのもとに残し、1人で鹿を追跡した。マーリーチャは上手く逃げ、ラーマを疲れさせたが、捕らえることを諦めたラーマによって射殺された。しかしマーリーチャは死の間際に正体を現し、ラーマの声色を真似て、シーターとラクシュマナの名を叫んだ。この声を聞いたシーターはラクシュマナに懇願してラーマを助けに向かわせたが、ラーヴァナはその隙をついてシーターをさらって逃げた。


2009年02月21日

太平洋の米英戦艦や地上基地

第二次世界大戦は航空機を主体とした総力戦となった。戦争初期は十分な戦争準備をしていたドイツ空軍(ルフトバッフェ)がヨーロッパ上空を席巻し、同様に準備の整った日本陸海軍の航空隊が太平洋の米英戦艦や地上基地、港湾や工場群といった主要目標や重要施設を壊滅させた。その後圧倒的生産力を持つアメリカが多数の爆撃機を生産し、米国機がヨーロッパと太平洋の上空を覆うようになった。イギリスとソ連も特徴ある機体を多数製作し、ドイツを東西から締め付けた。
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ

英米は大量の爆弾を搭載できる4発重爆撃機を次々に製作し、日独の都市や工場を爆撃して両国の継戦能力を奪った。また日本近海への空中投下機雷による海上封鎖で生じた国内航路船舶の被害は、潜水艦による通商破壊と共に日本の体力を奪った。これに対し枢軸側は4発重爆撃機を本格生産できないまま敗戦を迎えた。

海では航空母艦から発進した爆撃機や攻撃機が海上戦力として最も有効である事が明らかになり、更に地上攻撃にも柔軟に対応できた結果、制空権=制海権という状況になった。従来の主力であり制海権を担ってきた戦艦は価値が低下し以後建造されなくなった。また潜水艦を探知し攻撃する機能を備えた対潜哨戒機が生まれた。

大戦後半は各機とも2,000馬力級のエンジンを装備した。機体はアルミニウム合金(ジュラルミン)が主体であったが、モスキートのような木製機や、防御力を考慮し鋼製構造を採用したIL2のような異端もいた。また戦況に影響を及ぼすほどにはいたらなかったが、ドイツは世界初のジェット爆撃機Ar234を実戦投入している。

第二次世界大戦前半
単発機
TBF/TBM アヴェンジャー
九七式艦上攻撃機
百式重爆撃機日本 「中島 九七式艦上攻撃機」 日本海軍の主力攻撃機であり真珠湾攻撃にも参加。800 kg徹甲弾の水平爆撃により戦艦アリゾナを撃沈し、雷撃により多数の戦艦を着底させた。
日本 「愛知 九九式艦上爆撃機」 ドイツのシュトゥーカと同じく固定脚を採用。大戦緒戦は250 kg爆弾を正確に投弾し連合国艦船を多数沈めたものの、後続機の信頼性の低さによる配備の遅れから使用され続け、大戦後期にはあまりの旧式化、劣勢状況から搭乗員達からは「九九式棺桶」などとまで揶揄された。
アメリカ 「グラマン TBF/TBM アベンジャー」 真珠湾攻撃から間もなく生産がスタートし、ミッドウェー海戦を初陣に大戦中期以後活躍した雷撃機(艦上攻撃機)。太平洋で戦艦大和と武蔵を撃沈したほか、大西洋ではUボートを多数撃沈した。アメリカ機特有の頑丈な構造で被弾しても落ちにくかった。

双発機
ドイツ 「ユンカース Ju 88」 万能機と呼ばれた高速爆撃機。戦争後半には対爆撃機装備の夜間戦闘機バージョンも作られた。
日本 「三菱 一式陸上攻撃機」 九六式と協力してマレー沖海戦でイギリス戦艦を沈めた。開戦直後に台湾基地から発進しフィリピンの米軍航空機を壊滅させた機体。防弾装備が貧弱で、中期以後の戦闘では大きな被害を出した。航続距離を稼ぐために翼に燃料を格納したため、被弾により簡単に火がつき「ライター」と揶揄された。
日本 「三菱 九七式重爆撃機」 日本陸軍初の近代的な単葉・引き込み脚の爆撃機。
日本 「川崎 九九式双発軽爆撃機」 急降下爆撃も可能な爆撃機。
日本 「中島 百式重爆撃機(呑龍)」 九七式重爆撃機より高速・重武装が売り物だったが性能的には大差がなかった。
アメリカ 「ノースアメリカン B-25 ミッチェル」 1万機以上生産され太平洋や地中海で枢軸国側の艦船を攻撃した。空母ホーネットに16機を乗せて日本近海で発進させ、ドーリットル空襲をした機体。
イギリス 「デハビランド モスキート」 全木製の高速爆撃機。Ju-88と同様万能機と呼ばれ、夜間戦闘機バージョンも作られた。
ソ連 「イリューシン DB-3/Il-4」 ソ連で唯一の、ドイツ軍に対抗し得る性能を持った比較的大型の爆撃機であった。

B-25 ミッチェル
[編集] 4発機
アメリカ 「コンソリデーテッド B-24 リベレーター」 18,000機生産され、ヨーロッパや太平洋で活躍した重爆撃機。B-17より太い胴体を持ち汎用性に優れていた。ナチス・ドイツ支配下にあったルーマニアのプロエスチ油田などを爆撃した。
ソ連 「ヴァフミストローフ ズヴェノーSPB(ЗвеноСПБ)」TB-3爆撃機に爆装したI-16戦闘機を搭載した機体。戦争初期にルーマニアへの攻撃などに使われた。

第二次世界大戦後半
SB2C ヘルダイバー
単発機
アメリカ 「カーチス SB2C ヘルダイバー」 ドーントレスに次いで採用されたアメリカ海軍の急降下爆撃機。1700馬力のエンジンと強力な火器をもつ。胴体下に900kg、翼下に225kgも搭載でき、爆弾だけでなく魚雷も搭載できた。欠点として操縦性に難があったにも関わらず、魅力のある性能をもっていたため大量生産された。
日本 「海軍空技廠 艦上爆撃機 彗星」 太平洋戦争前期の主力艦上爆撃機である九九式艦上爆撃機に代わる機体として戦争後期に登場した。最初に量産された11型と12型は、水冷式のアツタエンジンを搭載し、500kg爆弾が搭載可能となりマリアナ沖海戦などで主力艦爆として使用されたが、故障が多く、整備員泣かせであったことから、エンジンを信頼性の高い空冷の金星62型に換装した彗星33型が登場し、フィリピン決戦や沖縄戦の際には、33型が主力艦爆となった(実際には、日本海軍の空母機動部隊が壊滅状態になったため、実質的に陸上爆撃機として使用された)。のちに、33型をベースにし、緊急時に一時的に増速するためのロケットを装備した彗星43型も生産された。また、彗星の一部は斜銃を装備し、夜戦として使われた。
ソ連 「イリューシン Il-2」 「シュトルモヴィーク」と呼ばれた戦闘攻撃機で、23mm機関砲と爆弾を抱えて戦場上空を低空で飛び回り、ドイツの戦車や装甲車を次々に葬った機体。主要部の構造は13mm鋼板をプレス整形したもので、大抵の機銃弾を跳ね返すと信じられ『空飛ぶ戦車』と呼ばれたが、実際はかなりの損害も出している。派生型が多い。

双発機
日本 「三菱 四式重爆撃機飛龍」 日本陸軍の最後を飾る高速爆撃機。単発機に匹敵する程と謳われた秀逸な運動性能、長大な航続距離、急降下爆撃の可能、防弾装備も充実していたが、この時期でも日本は技術的、工業力的に4発機が作れなかった。重爆といっても従来の日本軍爆撃機と特に変わらず爆弾搭載量はわずかに800 kg。しかし、海軍の航空魚雷1本を搭載することも可能で、台湾沖航空戦やフィリピン決戦、九州沖航空戦、沖縄戦などでは、陸軍雷撃隊として、しばしば、米軍艦隊などに対する夜間雷撃も敢行し、劣勢状態の大戦末期ながらも活躍した。
ソ連 「ペトリャコーフ Pe-2」 ドイツ軍を追い詰めた高速爆撃機。ベルリンの飛行場を爆撃し、ヒトラーらの脱出を不可能にした機体でもある。優れた高空性能から迎撃戦闘機型も作られ、Pe-3と命名された。同クラスで共に高性能機であるモスキートと比較されることも多いが、モスキートが木製機であるのに対し本機は全金属製機である。なお、ペトリャコーフが搭乗していたPe-2の墜落により死亡した後は、同設計局はミャスィーシチェフが率いのちに名称もミャスィーシチェフ設計局に変更されたため、後期の機体は「ペトリャコーフ Pe-2」ではなく「ミャスィーシチェフ Pe-2」とされている。

4発機
B-29イギリス 「アブロ ランカスター」 5t爆弾トールボーイや10t爆弾グランドスラムでノルウェーのフィヨルドに潜むドイツ戦艦ティルピッツを仕留め、分厚いコンクリートで守られたUボートのドックやトンネル、頑丈な鉄道陸橋を破壊した。1942年以降、イギリスの主力爆撃機として全種7000機以上が生産されてドイツの都市に対し夜間爆撃を行った。
アメリカ 「ボーイング B-29スーパーフォートレス(超要塞)」。1944年のアメリカ軍のサイパン占領後、サイパンの飛行場より日本本土に飛来し、焼夷弾による絨毯爆撃で日本の諸都市を焼き尽くして継戦能力を奪い、1945年8月に広島市と長崎市に原子爆弾を投下した機体。完全与圧室を装備し、高度10,000 mでも搭乗員は酸素マスク無しで操縦した。防御機銃は遠隔操作により作動する。爆弾は9tまで搭載可能、爆弾を少なくすれば航続距離は9,000 km、最大速度は576 kmで零戦より速い。後にエンジンを高性能版に換装したB-50型が開発され、朝鮮戦争初期に活躍した。

冷戦時代
第二次世界大戦が終わった後、米・ソ・英・仏・中国で核兵器が実用化されると同時に、東西陣営に分かれて冷戦時代に突入した。爆撃機には仮想敵国の主要部に核爆弾を落とす能力が求められるようになった。この長距離侵攻作戦を実施できる機体は戦略爆撃機と呼ばれ、当然のことながら大型の機体に核爆弾を搭載した。

別途局地的な紛争への対応や、仮想敵国周辺部への攻撃を担当する戦術爆撃機が作られたが、こちらは核爆弾運用能力の無いものも多かった。エンジンは終戦直後に作られた機体以外はジェット化され、超音速機も多数制作された。

冷戦が最も厳しかった1960年代、各国の空軍基地には突発的な核戦争の対策として、核爆弾を搭載し燃料を満タンに積みいつでも短時間で飛び立てるように準備している機体が常時配置されていた。また西側各国の航空母艦に核兵器が積載されていることは、(政治的問題が非常に微妙な)日本国内以外では当然とみなされていた。当然空母に搭載されていた攻撃機のうちの特定機種は核兵器運用能力を有し、搭乗員はその訓練を行っていた。

戦略爆撃機:速度音速以下
B-36とB-29
B-47アメリカ 「コンベア B-36 ピースメイカー」 初飛行1946年。第二次大戦中に設計された非常に大きな機体。全幅70 mもある少し後退角を持つ主翼に、3,500馬力のレシプロエンジン6基を後ろ向けに取り付け、その外側にジェットエンジンを片側2基ずつ増設した10発機。爆弾最大32tを積み、爆弾を減らせば最大航続距離は16,000 kmに達し、世界中どこでも爆撃できる機体と宣伝された。しかし最大速度がB-29程度なので、目的地につく前にミグ戦闘機に撃ち落されるのは明白だった。
アメリカ 「ボーイング B-47 ストラトジェット」 初飛行1947年。スマートな後退翼にジェットエンジン6基を装備し亜音速で飛行した爆撃機。エンジンは内側が2基一組、外側が1基単独で主翼下にポッド式に吊り下げられていた。本機の後退翼はジェット戦闘機セイバーと同様、終戦時にドイツの研究所からアメリカが入手したデータをもとに設計された。当時のジェットエンジンは燃費が悪く、所要の航続距離が得られなかったので、空中給油(受油)システムが取り入れられた。
アメリカ 「ボーイング B-52 ストラトフォートレス」 初飛行1952年。戦後相次いで作られたアメリカ戦略爆撃機の決定版。主要部品や電子機器を更新しながら現在でも使われている8発機でエンジンは2基ずつ束ねて主翼下に吊り下げている。ベトナム戦争の北爆や湾岸戦争等、本来の目的(戦略核攻撃)以外の場面で使われた。B-1B配備(1985年)以後の本機の核任務は、核ミサイル発射母機となっている。艦船からの発艦は不可能。
ソ連 「ツポレフ Tu-95」 初飛行1952年。35度の後退角を持った主翼に4基の巨大なターボプロップエンジンを備え、時速800 km/h以上の速度で飛ぶプロペラ機。現在も現役にあり巡航ミサイル発射母機の役を負っている。なお、Tu-142は対潜哨戒機型。また、1960年代に日本航空とアエロフロートとの共同運航でモスクワ-羽田間を飛んでいたターボプロップ旅客機Tu-114は本機の派生型。
ソ連 「ミャスィーシチェフ 3M」
イギリス 「アブロ バルカン」 初飛行1952年。巨大で分厚い三角翼にエンジン4基を収めた機体。本来の目的である核戦争に使われること無くスクラップにされる予定であったが、その寸前にフォークランド戦争で一働きしたことは有名。

戦略爆撃機:超音速
Tu-160アメリカ 「コンベア B-58 ハスラー」 初飛行1956年。三角翼の下面に戦闘機用ジェットエンジン4基を吊り下げ、マッハ2で飛んだ機体。航続距離が短く、搭載能力も少なく使いづらかったため、戦略航空軍団はあまり気に入らず、早くも1970年代に全機退役した。
アメリカ 「ロックウェル B-1 ランサー」 初飛行1974年。マッハ2で飛ぶ可変後退翼を持った4発の大型超音速爆撃機として設計された。ジミー・カーター大統領の時に一旦開発が中止され、ロナルド・レーガン大統領がB-1Bとして復活させ、時代の流れにあわせ最大速度をマッハ1.25、低空侵攻速度は音速以下に抑えその代わりにステルス性を高めた。生産機数100機。
ソ連 「ツポレフ Tu-160」 初飛行1981年。アメリカのB-1に対抗して制作され、形状もよく似た可変後退翼の超音速爆撃機。現在のところ世界最大の実用爆撃機で最大速度はマッハ2。生産機数38機。

攻撃機または戦術爆撃機(前線爆撃機):速度音速以下
A-4 スカイホーク
ハリアー IIアメリカ 「ダグラス A-4 スカイホーク」 初飛行1954年。単発で小型の空母艦載機。飛行性能と兵器搭載量に優れ、長年にわたって改良を続けながら生産された。核兵器運用能力を持つタイプもあった。2006年現在でも使用している海軍・空軍がある。
アメリカ 「グラマン A-6 イントルーダー」 初飛行1960年。艦上攻撃機としては大型の双発機。敵のレーダー網をかいくぐって超低空で侵攻することを目的に制作された。飛行性能は特に目立つ要素はないものの、電子機器の性能が高かったため各種改良を加えながら1990年代までアメリカ空母の主力攻撃機として使用された。搭乗員2名が横に並んで座る配置のため、胴体は先頭部分が太いおたまじゃくし型。同型機にEA-6A プラウラー電子戦機がある。
イギリス 「ホーカー・シドレー ハリアー」 初飛行1966年。世界最初の実用垂直離着陸機。ヨーロッパ大陸での戦闘を想定し、滑走路が破壊された後でも戦闘が継続できる攻撃機として設計された。派生型BAe シーハリアーは軽空母に搭載され戦闘機としての能力も身に付けた。フォークランド紛争でアルゼンチン空軍に圧勝した結果、他国も軽空母とシーハリアーの組み合わせの有効性に注目するようになった。
アメリカ 「フェアチャイルド A-10 サンダーボルトII」 初飛行1972年。戦場上空を低速で飛び敵戦車やトラックを見つけ次第破壊する目的で制作された。ジェット機には珍しい直線翼で、その任務ゆえ強力な装甲を持つ。湾岸戦争で活躍した。
ソ連 「スホーイ Su-25」 初飛行1975年。アメリカのA-10と似た目的で制作され、直線翼を持つ。アフガニスタンやチェチェン、コートジボアールなど、世界各地で実戦に投入されている。

戦闘爆撃機(戦闘攻撃機):超音速
トーネードアメリカ 「リパブリック F-105 サンダーチーフ」 初飛行1954年。核戦力戦闘機として生産が開始された単発機。ベトナム戦争で最も多く出撃した機体として有名。
アメリカ 「ジェネラル・ダイナミクス F-111 アードバーク」 初飛行1964年。3軍統合戦闘機として開発された筈の戦術攻撃機。ベトナム戦争から湾岸戦争まで幅広く活躍し、戦略爆撃機型や電子戦機型も生産された。
国際協同 「パナビア・トーネード」 初飛行1974年。イギリス・ドイツ・イタリアの3カ国が協同して開発した超音速攻撃機。地上レーダーの死角の超低空を高速で飛行して敵を襲撃する目的で作られ、超低空での安定性確保のため可変後退翼を採用した。戦闘機タイプの派生型をイギリスが採用している。
日本 「三菱 F-1」 初飛行1977年。日本に上陸しようとする敵艦船を攻撃する目的で、国産高等練習機T-2をベースに制作された。空戦能力も有する。
ソ連 「MiG-23/MiG-27」 ソ連空軍戦闘爆撃機部隊の主力となった機体。

戦術爆撃機:超音速
ソ連 「ツポレフ Tu-22M」 初飛行1969年。可変後退翼を持った双発超音速爆撃機。冷戦時代日本を含む西側諸国から大きな脅威とみなされていた。ソ連崩壊後はロシアやウクライナで使用。

冷戦後
ベルリンの壁が崩壊しソ連が解体され 冷戦は過去のものとなり、現在の仮想敵は大国の重要基地や主要都市ではなくなった。その影響を受けて戦略爆撃機は必要性が低下し、アメリカ・ロシア共冷戦末期に開発した超音速大型爆撃機の生産を早々に中止した。また1992年に全てのアメリカ空母から核兵器が無くなった。

現在アメリカは『いかに自軍の損害を少なくして勝利するか』に最大の努力を払っており、敵に見つからずに敵を攻撃するステルス機の導入に力を入れている。

戦術爆撃機
アメリカ 「ロッキード F-117A ナイトホーク」 初飛行1981年
世界最初の本格的ステルス実用機。レーダー反射を極力減らす形状と構造を採用し、赤外線排出を減らすために2基のエンジン排気口はスリット型にした。自分から電波を発するレーダーはステルスと相反するので装備していない。搭載する兵器は全て機体内に収める。等の徹底的な対策を施している。生産機数64機。戦闘機をあらわすFの記号がついているが、空戦能力は低く実質的には攻撃機である。

戦略爆撃機
B-2 Spiritアメリカ 「ノースロップ・グラマン B-2 スピリット」 初飛行1989年。
尻尾の無いマンタ(イトマキエイ)のような異形の4発大型爆撃機。先に完成したF-117A同様徹底したステルス性を追求している。生産機数21機。

マルチロール機
その他 ミラージュ5/50、F-15E、F-16、F/A-18、F-14、F-35、MiG-23、MiG-29SMT、Su-30MK、JAS39等多くのジェット戦闘機が爆弾や対地ミサイルを搭載して攻撃できる。

爆撃機の機種名について

開発・所有する飛行機の制式名に一貫して機種名、即ち爆撃機またはB(Bomberの頭文字)等を付したのは、日本とアメリカのみ。例えば第二次大戦初期にロンドンを空爆したドイツの爆撃機はハインケル社のHe111であり、ドイツ戦艦ビスマルクを雷撃したのはフェアリ社のソードフィッシュ、ロシアの超音速戦略爆撃機はツポレフTu-160。イギリスで開発された垂直離着陸機ハリアーはアメリカ軍に採用されると攻撃機としてAV-8の名を冠したが、本国では相変わらずハリアーのままである。日米の機種名についても時代によって変遷があるので列記する。

日本陸軍:基本的に重爆撃機または軽爆撃機と命名。その他にソ連の機甲師団等の戦車攻撃用に急降下爆撃ができる機体を襲撃機と呼んだ(九九式襲撃機等)。
日本海軍:当初雷撃と水平爆撃兼用の機体しかなく、これを攻撃機と呼んでいた。1930年代に入りアメリカ海軍が急降下爆撃を採用すると日本海軍も急降下爆撃ができる機体を設計して爆撃機(ごく初期には特殊爆撃機)と称した。急降下爆撃は降下時や引き起こし時に機体に大きな力がかかるため機体強度を上げる必要があり、800kg魚雷を搭載する攻撃機とは別設計になっていた。しかし大戦中期から末期に開発された機体は充分な強度を持つよう設計され、銀河や流星改は雷撃も急降下爆撃も可能な機体であった。
アメリカ陸軍:第二次大戦当時、比較的小型で運動性の良い爆撃機にA(攻撃機)、それ以外の機体にB(爆撃機)を付していた。
アメリカ空軍:アメリカ陸軍航空隊から発展した空軍はAの分類を廃止し、比較的大型のものをB(爆撃機)、比較的小型で運動性の良いものをFに再分類した。例えばF-105のように対地攻撃を主任務としながらF(戦闘機)扱いとなっているものがあるのはそのためである。A(攻撃機)の名は、1962年の三軍命名法統一に伴って復活し、以後地上を移動する戦車やトラックなどの目標を攻撃する機体に対して命名された(対戦車攻撃を想定した低速ジェット機A-10など)。ベトナム戦争時には4発ターボプロップ輸送機C-130の胴体に多数の機関銃を装備したAC-130のようなガンシップも攻撃機の仲間入りをした。
アメリカ海軍:第二次大戦終了まで、水平・急降下を問わず爆弾を落とす機体をB(爆撃機)、魚雷を発射できる機体をT(雷撃機)、偵察に使用する機体をS(偵察機)として、複数目的に使用できる機体は併記していた。ミッドウェーで日本空母を葬った急降下爆撃機ドーントレスはSBD(偵察爆撃機ダグラス製)、大和・武蔵を撃沈した雷撃機アベンジャーはTBF(雷撃爆撃機グラマン製:急降下爆撃は不可能)だった。大戦後期に登場した雷撃と急降下爆撃の両方を行える機体にはBTという記号が用意されたが、ほどなく攻撃方法を特定しないA(攻撃機)の記号が使われることになった。大戦後の主力攻撃機となった急降下爆撃と雷撃の両方ができるスカイレイダーの記号はAD(攻撃機ダグラス製)だが開発当初はBT2Dである(後にA-1)。その後海軍は対地・対艦攻撃を行う機体を全てAとしている(双発大型機A3Dスカイウォリアー(後にA-3)や超音速核爆撃機A3Jヴィジランティ(後にA-5)など)。なお名称に製造会社の記号を付す海軍の命名法は、1962年の三軍命名法統一の時に廃止された。

2009年02月04日

森氏(もりし)

清和源氏河内源氏系の森氏。
桓武平氏秩父氏系の森氏。
シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス

森氏(もりし)は清和源氏の一流、河内源氏の流れを汲む武家である。八幡太郎源義家の七男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となって、森冠者と名乗った。その三男、源頼隆は後に若槻を号するが、出家の後は森蔵人入道西阿と称した。本格的に森を名字としたのは、宝治合戦後に頼隆の次男である森頼定が森姓を称したことによる。遠祖陸奥七郎義隆の長男・義広(頼定の伯父)にはじまる源姓毛利氏とは、名字に多少の差異はあるものの、「名字の地」即ち名字発祥の地を同じくする。

系譜
人皇第56代清和天皇―57代陽成天皇―三品弾正尹式部卿宮元平親王―贈正一位経基王(源経基)―贈正一位鎮守府将軍多田満仲―贈従二位鎮守府将軍源頼信―贈正三位鎮守府将軍源頼義―贈正三位八幡太郎源義家―陸奥七郎義隆(源姓毛利氏の祖)―若槻伊豆守頼隆(若槻氏の祖)―安嘉門院判官代正五位下森伊豆守二郎頼定(森氏の祖)

遠祖・陸奥七郎源義隆の時代?若槻氏の成立
保元の乱以来、源氏と平氏の間で朝廷における待遇の差における不満による軋轢が強まったことにより源氏の棟梁・源義朝が藤原信頼らと挙兵に及び平治の乱が勃発する。義朝の大叔父にあたる陸奥七郎義隆は、平治の乱で源氏方につき平氏軍と戦った。しかし、源氏軍が平清盛の武略の前に敗れると、再起を期して落ち延びたものの、義隆は平家に味方した比叡山延暦寺の僧兵によって近江国龍華越のあたりで討ち死にしてしまう(詳細は義隆の項に詳しい)。

その後、平家の残党の探索がはじまると、義隆の生まれたばかりの子である初名 毛利三郎、後の若槻頼隆は千葉氏の下で成長。頼朝が平家追討の旗を掲げ挙兵すると、これに従い鎌倉幕府成立とともに御家人となる。頼隆は長命で五代執権・北条時頼の時代まで生きたが、北条と三浦という幕府二大勢力の対立が表面化すると宝治合戦が勃発し、頼隆は三浦方となる。これにより、頼隆は討ち死した。

森氏の成立?美濃森氏 近世大名への道?
宝治合戦によって、一族滅亡の憂き目を見た若槻氏一党であるが、頼隆の次男であった森頼定は鎌倉にはいなかったため、戦禍に巻き込まれずにいた。頼隆の次男の森頼定は長じて伊豆守に叙任し、安嘉門院判官代をも務め、位階も正五位下に進んで己が勢力基盤を創り上げた。森の名をはじめて冠したのは祖父 義隆の時であるが、称号としてのみ用いられたのであって名字として確立されていたわけではなかった。まして、その嫡男毛利義広にはじまる源姓毛利氏などは義隆をもって家祖としており、純粋に森家の初代とは言いがたい。

これは源頼隆に至っても同じである。頼隆は若き日は毛利冠者、毛利三郎、森冠者など名乗っていたが、信濃国水内郡若槻庄を所領として得た後は若槻伊豆守を称し、嫡流の子孫は若槻氏を継承している。出家の後、「森蔵人入道西阿」と称しているが、頼隆の代に至ってもなお森という号を一族の称とするには至っていない。

本格的に森氏という一族が確立を見たのは頼隆の子である頼定が初代となる。そして義隆、頼隆は森家の遠祖とし、頼定を以って家祖と考えるのが自然である。頼定の子孫である森一族は後世に至って幾流かの系統かに分かれた。森姓より派生した支族としては頼定の四男・上野朝氏にはじまる上野氏、七男・森義通の嫡男・笠合義宗にはじまる笠合氏、九男・戸田信義の子孫には三河国田原城に拠点を置く戸田氏などがいる。森家として活躍した武将としては南北朝時代に細川清氏に従って堺から讃岐国に渡ったという、讃岐国香川郡の乾城城主 森次郎左衛門などがいる。

また、その後、戦国時代にあっては次郎左衛門とは別系の一族、初代頼定次男・定氏の子孫、美濃国に土着した一族が森家の中で最も活躍した。美濃森氏の成立は定氏から6代目 頼清が美濃源氏の名門 土岐氏の被官となり知行地として300貫を賜り子々孫々、土岐氏に仕えたことにはじまる。

戦国中期に入り、森越後守可行の嫡男 森可成は主君の土岐頼芸が斎藤道三によって追われる。しばらくは長井道利の下に寄寓し、後に所領の近接する織田氏の傘下に入って、織田信秀の家臣となる。森氏は織田家の武将として織田信長が家督を継ぐと、その天下統一に向けた戦いにおいて戦功を挙げていくことになる。

織田宗家の織田信友が尾張守護 斯波義統を暗殺し、嫡男の斯波義銀が信長に救いを求めてきたことをきっかけに、信長の清洲城攻めに加わり信友を討った。その後も美濃斉藤氏攻めや、浅井・朝倉連合軍との熾烈を極めた戦いで森可成とその嫡男 森可隆が討ち死にする。すると次男の森長可が跡を継ぎ鬼武蔵の異名をとるほどの活躍を見せ、信濃国川中島に20万石の大封を得た。

また、その弟で信長の小姓となった森蘭丸も父兄の治めた美濃国金山に6万石を与えられ、森氏はかつてない栄華を極めた。しかし、そうした栄光も本能寺の変において織田家の有力家臣である明智光秀が謀叛を起こし、信長主従を討つと、森蘭丸はじめその弟の森坊丸、森力丸ともども討ち死にしてしまう。森家当主森長可やその弟 忠政は本能寺の場にはおらず領国にいたために生き延びていた。変後、領国の一揆勢の不穏な動きや上杉景勝の攻勢を危惧した長可は事が起こる前に川中島の所領を捨てて蘭丸の領国であった金山に退く判断をする。危惧していた通り空地となった川中島は侵攻してきた上杉の手に渡ってしまい、これによって長可は失領してしまったが金山の蘭丸の遺領を引き継ぎ再起を図る。父や弟を失った長可は信長死後の混迷した世にあって、森家の存続に腐心する。

豊臣氏?江戸幕府にかけての美濃森氏
本能寺の変後、謀叛人・明智光秀を討った豊臣秀吉は織田家一の大功労者として信長亡き後の世継ぎ問題において圧倒的に優位な立場となる。そして幼少の織田信長の嫡孫をその後継に据え、その後見人になることに成功。織田家の所領問題においても功臣への所領の分配をも意のままに分配した。これによって織田家の実権は事実上、秀吉の掌中に入った。これを不服とした織田家筆頭家老の柴田勝家や織田信孝は対豊臣戦線を張り、森長可も一度は織田信孝の配下となった。しかし、時代が秀吉優位となる中で森長可も親秀吉の姿勢をとることになる。

やがて、織田家の抗争の中で信孝は討たれ、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍が柴田勝家を討つ。そして秀吉の天下取りの布石が固まる。そのため、織田家の盟友であった、大大名徳川家康と対立を深め、豊臣対徳川の間で小牧・長久手の戦いが勃発する。この中で、池田恒興・森長可を大将とした豊臣方は三河国中の徳川領内の奥深くまで進軍し、家康率いる強靭な三河武士の前に散々な敗北を喫した。

この戦によって池田恒興・森長可は討ち死にを遂げてしまう。この時、出陣前に遺した長可の遺書を手にした秀吉は大いに嘆き悲しんだという。鬼武蔵の異名をとった森氏の大黒柱たる長可亡き後、森氏の後継は可成の末子森忠政に引き継がれる。豊臣政権確立に貢献した森氏の当主として重んじられた忠政は、秀吉の弟、大和大納言豊臣秀長の娘婿となり、羽柴姓を与えられるなど政権内では比較的重要な位置を占めた。

しかし、秀吉が二度の朝鮮出兵の後、幼少の跡継ぎ豊臣秀頼を遺して亡くなると、天下の形勢は小牧・長久手の戦いの後に豊臣家に臣従した徳川家康に移ることとなる。そして反徳川の兵を挙げた石田三成ら西軍と徳川家康をはじめとした東軍の間に関ヶ原の戦いが勃発する。忠政は徳川方に組して家康嫡男の徳川秀忠の部将として[信濃の西軍、真田昌幸攻めに従軍する。

戦後、徳川方として功績を挙げた森忠政は美作国津山藩18万石の大封を得て、江戸幕府政権下においても外様大名ながら大大名として栄えた。森家はその後、森忠政?森長継?森長武と続き、延宝4年(1676年)津山藩森家3代藩主・森長武が弟森長俊に勝北郡北部1万5千石を分知して支藩を立てた(津山新田藩)。しかし、森宗家は次々と当主が亡くなり二代藩主の長継が再び当主の座に復したものの、後継が乱心を理由に改易されるという憂き目を見ることになる。

その後、幕府より御家再興を許された森氏は赤穂藩2万石、三日月藩1万石で再び家名を回復した。さらに森氏は重臣で可成の時代から縁戚であった源姓関氏に養子を入れ、所領を分知し、大名に取り立てた(美作宮川藩後に新見藩に転封)。その後、森氏は一門三藩断絶することなく幕末を迎え、西国雄藩に薩長同盟が成立すると、倒幕軍に加わり明治維新を迎えることになる。

明治期における森氏 爵位・任官・動向
播磨国赤穂藩主 森氏 子爵
分家・赤穂藩家老 森氏(采女)森氏(続之丞)森氏(主税)
播磨国三日月藩主 森氏 子爵
分家・久留里藩家老 森氏(清太夫)
備中国新見藩主 関氏 子爵

歴代当主 祖先・宗家・一門
美濃森家歴代・森家嫡流・美作津山・赤穂藩歴代藩主。外様・大広間・国主・18万6000石、赤穂藩として再興後2万石・外様・柳間・城主。

森頼定(よりさだ)〔正五位下安嘉門院判官代伊豆守〕若槻頼隆次男。森家祖。
森定氏(さだうじ)〔二郎〕頼定次男。
森頼氏(よりうじ)〔二郎太郎〕定氏嫡男。
森光氏(みつうじ)〔七郎〕頼氏三男。
森氏清(うじきよ)〔伊豆守〕美濃森家祖。
森頼俊(よりとし)〔左近大夫〕
森頼師(よりもろ)〔左京亮〕
森頼長(よりなが)〔二郎太郎、法名・宗覚〕
森頼継(よりつぐ)〔左近大夫、七郎兵衛。左衛門尉とも。法名・宗三〕
森可光(よしみつ)〔二郎、法名 宗清〕
森可房(よしふさ)〔越後守、小太郎〕
森可秀(よしひで)〔越後守、小太郎〕
森可行(よしゆき)〔越後守、小太郎〕
森可成(よしなり)〔三左衛門尉〕初代美濃国金山城主。
森長可(ながよし)〔従五位下武蔵守兼侍従。武蔵、勝蔵〕二代金山城主。信濃国四郡賜る。
森忠政(ただまさ)〔従四位下、左近衛中将侍従〕 豊臣秀長女婿。賜羽柴姓。初代津山藩主。森可成の六男。兄 長可の跡目を継ぐ。
森長継(ながつぐ)〔従四位下、大内記〕津山藩二代藩主。森家家臣・関成次の長男、森忠政の外孫。
森長武(ながたけ)〔従四位下 伯耆守〕長継次男。三代藩主。
森長成(ながなり)〔従四位下 美作守 侍従〕長継嫡孫。父忠継が早世したため、叔父の死後、家督継承。四代藩主。森長継の嫡男森忠継嫡男。
森衆利(あつとし)〔不詳〕一度、家臣の関家を継ぐが藩主となる。乱心で改易。五代藩主。森長継二十四男。関家継承の後、家督。
森長継(ながつぐ)隠居であったが、御家断絶のところ、長継存命の為、特に家督再承が許される。初代播磨赤穂藩主となる。
森家傍系、西江原→赤穂藩歴代藩主。2万石・外様・柳間・陣屋→城主。

森長直(ながなお)〔従五位下、和泉守〕長継二十三男。 赤穂藩二代藩主。
森長孝(ながたか)〔従五位下、志摩守〕 赤穂藩三代藩主。族臣森采女三隆(森可成曾孫)子。
森長生(ながなり)〔従五位下、越中守〕 赤穂藩四代藩主。縁戚、森家家老各務伊織利直子。
森政房(まさふさ)〔従五位下、伊勢守〕 赤穂藩五代藩主。縁戚、森家家老各務伊織利直子。
森忠洪(ただひろ)〔従五位下、和泉守〕 族臣森縫殿正典子。
森忠興(ただおき)〔従五位下、山城守〕 忠洪嫡男。
森忠賛(ただすけ)〔従五位下、大内記〕 忠洪三男。
森忠哲(ただあきら)〔従五位下、和泉守〕 忠賛嫡男。
森忠敬(ただたか)〔従五位下、肥後守〕 忠賛三男。
森忠徳(ただのり)〔従五位下、越中守〕 忠敬四男。
森忠典(ただつね)〔従五位下、美作守〕 忠徳次男。
森忠儀(ただのり)〔従五位下、越後守、子爵〕忠徳三男。
森忠恕(ただやす)〔子爵〕忠儀長男。
森可久(よしひさ)〔子爵〕忠恕女婿。
森可展(よしのぶ)可久次男。
森家傍系、三日月藩歴代藩主。1万石・外様・柳間・陣屋。

森長俊(ながとし)〔従五位下、対馬守)美作津山藩主森長継五男。
森長記(ながのり)〔従五位下、安芸守〕長俊嫡男。
森俊春(としはる)〔従五位下、対馬守〕長記五男。
森俊韶(としつぐ)〔従五位下、対馬守〕俊春嫡男。
森快温(はやあつ)〔従五位下、丹波守〕安芸広島藩主浅野重晟次男。
森長義(ながよし)〔従五位下、河内守〕備中新見藩主関長誠次男。
森長篤(ながあつ)〔従五位下、対馬守〕播磨赤穂藩主森忠賛五男。
森長国(ながくに)〔従五位下、佐渡守〕長義嫡男。
森俊滋(とししげ)〔従五位下、伊豆守〕長国次男。
森長祥(ちょうしょう)〔子爵〕俊滋長男。
森俊成(としなり) 〔子爵〕関博直(長義外孫、俊滋従弟)子。
森利之(としゆき) 俊成長男俊守の長男。(俊成嫡孫)
清和源氏関家・森長継の子が養子入りし、森家の庶族となる。備中国新見藩歴代藩主。1万8000石・外様・柳間・陣屋。

関長治(ながはる)〔従五位下、備前守〕森家17代当主長継の九男。長継実弟関長政の跡を継ぎ、美作国宮川藩主次いで、初代備中国新見藩主。
関長広(ながひろ)〔従五位下、但馬守〕長治実兄、播磨三日月藩主森長俊次男。
関政富(まさとみ)〔従五位下、播磨守〕 長広嫡男。
関政辰(まさとき)〔無冠(早世のため)〕政富五男。
関長誠(ながのぶ)〔従五位下、備前守〕政富長男、庶出。
関長輝(ながてる)〔従五位下、備前守〕長誠嫡男。
関成煥(しげあきら)〔従五位下、備前守〕長輝次男。
関長道(ながみち)〔従五位下、備前守〕長誠次男、長義嫡男。
関長克(ながかつ)〔従五位下、備前守〕長輝三男、長吉嫡男。
関亭以(てい)長道長女、長克妻。女戸主の為授爵せず。
関博直(ひろなお)〔子爵〕萬里小路博房三男。母森長義女貞子。
関長剛(ながたけ)〔子爵〕博直四男。
関長博(ながひろ)〔子爵〕博直六男。
関勝(まさる)長博長男。
※〔世代数〕冒頭に示した通り、本項では頼定をもって森家の初代とみなす。森宗家〔津山藩主・赤穂藩主家〕は森家初代頼定以来の世数をもって歴代当主の代数を示す。分家においては分家した初代当主をもって1代目と数える。また、分家においても当主の代数の他、森家初代頼定からの世数を示すこととする。兄弟で養子縁組をした場合でも世数はあくまで兄の子として数える。また、森宗家では忠政の養嗣子である長継が、衆利の跡に再び当主として継いでいるが、代数の数え方としては同一人物とはみなさない。森長継は17代当主と21代当主とそれぞれ家督を継いでおり、もって22代長継の子孫は実質上の世数よりも1代繰り下がるものとする。また、初代三日月藩主長俊及び初代新見藩主関長治は、ともに森長継の実子であるが、17代長継の折に分家しており、森長俊・関長治とその子孫は17代森長継の子孫として数える。

その他の庶家
森姓庶家(宗家系) 津山藩主森家の当主から派生した一族

久留里森家 森長俊四男森光照にはじまる。久留里藩家老。
森光俊(みつとし)〔伊豆守〕三日月藩主森長俊四男。のち光照。下館城代
森光治(みつはる)〔五郎兵衛〕光照嫡男。久留里藩用人
森光仲(みつなか)〔清太夫〕光照次男。 久留里藩家老。
森光嶢(みつあき)〔五郎兵衛〕光仲嫡男。久留里藩家老。
森光厚(みつあつ)〔清太夫〕光仲次男。久留里藩家老。
森光福(みつとみ)〔清太夫〕磐木平藩用人成田新賢次男、光長嫡子(光厚摘孫)久留里藩家老。
森格蔵(かくぞう)〔格左衛門〕久留里藩用人芝山正善四男。はじめ光新。久留里藩家老。
森勝蔵(かつぞう)〔格左衛門〕光新嫡男。はじめ光重。久留里藩用人。久留里県大参事。
森主税家 森長武にはじまる。赤穂藩家老。
森長武(ながたけ)〔従四位下 伯耆守〕津山藩2代藩主森長継次男。はじめ長義(ながよし)津山藩3代藩主。
森長基(ながもと)〔縫殿〕津山藩2代藩主森長継五男。
森長英(ながひで)〔主税〕長基嫡男。赤穂藩家老。
森長員(ながかず)〔主税〕長英三男。赤穂藩家老。
森賛張(ただはる)〔主税〕長清嫡男。赤穂藩家老。
森可真(よしさね)〔主税〕賛張嫡男。赤穂藩家老。
森可彜(よしつね)〔主税〕可真嫡男。赤穂藩家老。赤穂城門前にて暗殺され断絶。
森姓庶家(可政系) 戦国武将・森可成の弟、可政から派生した一族。森可政は、初代津山藩主森忠政(可政の甥)によって津山に招聘され、津山執権となった。

森次郎家 森可政を初代とする。代々、伊豆守または半右衛門と名乗る。旗本。
森才兵衛家 森次郎家の3代・森重継の次男・森正剰にはじまる。旗本。
森半十郎家 森次郎家2代・森重政次男・森半左衛門にはじまる。
森武兵衛家 森可政の外孫森可信にはじまる。可信は関家の出身。赤穂藩重臣。
森左兵衛家 森可政の次男・森可澄にはじまる。旗本。
森縫殿家 森可政の子・森正次にはじまる。
福岡森家 森可政の子・成正にはじまる。福岡藩士。
福岡森家分家 福岡家2代・森正利の子・森正信にはじまる。福岡藩士。
森采女家 可政の子可春にはじまる。赤穂藩重臣。
森矢柄家 森采女家の3代当主・森三隆の養子・森可直(林家出身)にはじまる。
続之丞家 森可政の子・森正信にはじまる。
美濃源氏流戸田家(三河戸田氏とは異なる) 江戸幕府旗本となる。
戸田直高(なおたか)主計。森家12代森可秀の次男 森越後守成恒の子。外家を冒して戸田に改姓。家紋は鶴丸、六星。詳しくは、戸田氏の項を見よ。
戸田高善(読み方不詳)嘉兵衛。
戸田高畳(読み方不詳)平八郎。
戸田高猶(読み方不詳)頼母。

系図
太線は実子、細線は養子。

頼定

定氏

頼氏

光氏

氏清

頼俊

頼師

頼長

頼継

可光

可房

可秀
┣━━━┓
可行  成恒(以降、戸田氏参照)
┣━━━┓
可成  可政
┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
可隆  長可  成利  長隆  長氏  忠政
            ┏━━━┳━━━┫
            重政  忠広   娘===関成次
                        ┃
                      長継
   ┏━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━╋━━━┓
  忠継  長武  長俊  関長治  長基  長直  衆利
  ┃   ┏━━━╋━━━┓   ┃   |
  長成  長記  関長広  光照  長英  長孝
   ┏━━━┫   ┏━━━┫   ┃   |
  可敦  俊春  光治  光仲  長員  長生
       ┃   ┏━━━┫   ┃   |
      俊韶  光嶢  光厚  長清  政房
       |       |   ┃   |
      快温      光長  賛張  忠洪
       |       ┃   ┃   ┣━━━┓
      長義      光福  可真  忠興  忠賛
   ┏━━━╋━━━┓   |   ┃   ┏━━━╋━━━┓
  長国  関長道  長篤  格蔵  可彜  忠哲  忠敬  長篤
   ┃           ┃           ┣━━━┓
  俊滋          勝蔵          忠貫  忠徳
   ┃                   ┏━━━╋━━━┓
  長祥                  忠弘  忠典  忠儀
   |                           ┃
  俊成                          忠恕
   ┃                           ┃
  俊守                          可久
  ┃                           ┃
  俊之                          可展
可政流森氏

可政
┣━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━┳━━━┓
重政           可澄  正次  成正      可春  正信
┃            ┃   ┃   ┃       ┃   ┃
重継           可久  正矩  正利      三信  正紹
┣━━┳━━┓      ┃   ┃   ┣━━━┓   ┃   ┃
正重 正剰 半左衛門   長重  正方  長勝  正信  三隆  忠冨
┃  ┃  ┃      ┃   ┃   ┃       ┃   ┃
重正 政満 半十郎    正清  正教  長明      三益  可周
┃  ┃  ┃      ┃   ┃   ┃       ┃   ┃
正親 政俵 正久     長園  正典  一秀      可弘  可貞
┃  ┃  ┃      ┃   ┃   ┃       ┃   ┃
政張 政之 基正     和吉  正恭  正富      三勝  可久
┃     ┃      ┃   ┃   ┃           ┃
政宣    半十郎    長延  正賀  可貞          続磨
┃     ┃      ┃   ┃               ┃
政恭    一学     長格  賛張              十司
                  ┃
                 正綽

2009年01月21日

原料はトウモロコシ(コーン:corn)ではなく小麦粉

食べられる円錐形の受け皿は、その名をコーン(cone)という。日本語ではカタカナ表記が同じなので勘違いされることが多いが、コーンという呼び名は形状から来ており、原料はトウモロコシ(コーン:corn)ではなく小麦粉である。現在では、形が円錐形でないものも含めて、小麦粉を焼いて作られた容器は、すべてコーンと呼ばれる。

コーンの発明者は不明である。これに関する最初の文献記述は、Mrs. A. B. Marshall's Cookery Book(1888年)である。Marshallはアイスクリーム製法にさまざまな工夫をした人物として知られ、彼女自身による発明の可能性もある。このカップは、1904年のセントルイス万国博覧会のアイスクリーム売りが使用し、一気に全世界に広まった。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

製法
アイスクリームの製造は原料の混合、乳化、殺菌、冷却、エージング、凍結、硬化からなる。

原料の混合
原料を混合し完全に溶解しアイスクリームミックスとする。60℃前後に加温して行なわれる。
乳化
アイスクリームミックス中の油滴を細かく粉砕して均一な状態にする。通常2回乳化は行なわれる。1回目の乳化は高圧で行ない、油滴の直径を2μm以下まで細かくする。この時点ではいくつかの油滴がくっつきあっている。2回目の乳化は低圧で行ない、この油滴をバラバラにして分散させる。
殺菌
アイスクリームミックス中の菌を殺菌するほか、乳原料中に含まれる酵素を失活させる働きもある。酵素の活性が残存していると油脂が分解されて臭いが出てくるためである。工業的にはタンクで行なうバッチ式の殺菌では冷却に時間がかかり品質の劣化が起こりやすいため、連続流通式の高温瞬間殺菌法が使用されている。
冷却・エージング
殺菌後ただちにアイスクリームミックスは冷蔵され、そのまましばらく貯蔵される。貯蔵中に乳化剤が油滴の表面に充分に吸着したり、油滴中の脂肪が固化したりする。これは凍結時の空気の保持などに影響する。
凍結
アイスクリームミックスと空気をフリーザーに導入し-2?-9℃程度の温度まで急速に冷却し凍結させる。激しく撹拌しながら急速に凍結することによって空気がアイスクリーム中に気泡として取り込まれたまま凍結し、アイスクリーム特有の食感が得られる。この取り込まれた空気の体積のアイスクリームミックスの体積に対する比率をオーバーランという。適当なオーバーランはアイスクリームミックスの組成により変わるが、低すぎると硬く冷たすぎる食感となり、多すぎるとパサパサした食感となる。凍結速度が速いほど、氷の結晶が細かくなり滑らかな食感のアイスクリームができる。この凍結でアイスクリーム中の水分の50?80%程度が凍結した状態になる。なお、ソフトクリームはこの時点でアイスクリームを取り出し盛り付けたものである。
硬化
フリーザーから出てきたアイスクリームを容器に充填して、そのまま-20℃以下まで冷却して、残っている水分の大部分も凍結させる。これはフリーザーの凍結温度そのままでは氷の結晶の融解と成長によって徐々に氷の結晶が合体してザラザラした食感になったり、気泡が合体して不均一になったりしてしまうためである。

販売、消費形態
アイスクリームは様々な形で販売、消費される。
現代日本では、次のような販売形態が認められる。

個別にパッケージされての販売
コンビニエンスストアやスーパーマーケットなどでは、包装済みの一食分のアイスクリームが販売されている。これらは通常、紙製のカップに入っているか、木などの棒にアイスクリームがついたアイスキャンディーの形をとる。クッキーサンド系のアイスクリームは、袋入りのタイプもある。
バルクによる販売
スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどでは、紙製の大型パックに入ったアイスクリームが販売されている。代表的なブランドに、ハーゲンダッツ、レディーボーデンなどがある。また、複数個入りのワンパックでも販売されている。これらは一食分の分量ではなく、家庭の冷凍庫に保存し、複数回に渡って食べることを前提とした販売形態になっている。これをファミリーパックという。
外食産業での販売
喫茶店、レストラン、ファースト・フード店などではデザートとしてアイスクリームを提供している場合も多い。喫茶店などではバニラアイスクリームだけを置いてある場合もあるが、レストランによってはアイスクリームの盛り合わせやフルーツなど他の食品との組み合わせからなるデザートも提供される。これらの飲食店では何らかの皿や器にアイスクリームを盛って提供する点が共通している。喫茶店のアイスクリームは、典型的には、銀色の専用の皿と、独特の形をした小ぶりのスプーン、ウエハースやチェリーなどと一緒に提供される。しかしこの形態での提供は近年見られなくなってきている。

2009年01月14日

鉱物書

すでに、アルベルトゥス・マグヌスは『鉱物書』において、自分で錬金術をおこなったが金、銀に似たものができるにすぎないと述べており、金を作ることに対して疑問がだされていた。 後世に数々の検証から化学が成立していった。

錬金術と科学
現代人の視点からは、卑金属を金に変性しようとする錬金術師の試みを全くの愚行として一笑に付すのは容易である。だが、歴史を通してみれば、錬金術は古代ギリシアの学問を応用したものであり、その時代においては正当な学問の一部であった。そして、他の学問同様、錬金術も実験を通して発展し各種の発明、発見が生み出され、旧説、旧原理が否定され、ついには科学である化学に生まれ変わった。これは歴代の錬金術師の貢献なくしてはありえなかったともいえる。

過去の文献からは、成立し始めた自然科学が錬金術を非科学的として一方的に排斥しているわけではなく、むしろ両者が共存していたことが見てとれる。錬金術師たちは、巷で考えられているような研究一辺倒の、恰も魔法使いやマッドサイエンティストのような身なり・生活をしていたのではなく、他の職業を持ちながら錬金術の研究も行うといった人物も多く存在していた。

例えば、万有引力の発見で知られるアイザック・ニュートンも錬金術に深く関わり膨大な文献を残した一人である。最近ではこれらの文献を集めた研究書も刊行されるなど、いわば錬金術的世界観の再評価が行われていると言える。自然科学の発展に伴い錬金術の科学性は否定されたが、ニューサイエンス運動の一環として「大いなる秘法(アルス・マグナ)」の思想は研究の対象となっている。

ヨーロッパでの磁器の製法
ヨーロッパでは磁器を中国・日本から輸入しており非常に高価な物だった。それをヨーロッパで生産する方法を発見したのは錬金術師である。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに研究を命じ、ベトガーは1709年に白磁の製造に成功した。
蒸留の技術
ランビキ(蘭引、日本には幕末にオランダから伝来。ジャービル・イブン=ハイヤーンが考案したとされるアランビーク蒸留器のこと)の発明とそれによる高純度アルコールの精製、さらに天然物からの成分単離は化学分析、化学工業への道を開いた。
中国での火薬の発明
中国の煉丹術師の道士が仙丹の製作中、偶然発明したといわれる。のちに西洋に伝わる。

錬金術という語の転用
金を生むという意味から転じて、安い元手から高額の利益(この時点では金の意味はgoldからmoneyに転じている)を生むようなビジネスモデル・投資や、資金洗浄に利権を指して「錬金術」と称する場合がある。同時に、その考案者や運用者を「錬金術師」と表現することもある。 これは、卑金属を貴金属へ変えることを例えたことから来たもので、その方法の成果から脚光を浴びているような、新しい利益を持つビジネスモデル・投資など経済活動の紹介として肯定的に使われている一方で、「あやしげ」「いかがわしい」といった詐欺や悪徳商法を意味する否定的表現としても使われている。

政治家の関連企業が二束三文の河川敷の土地を買い占めた直後、堤防工事が決まって地価が高騰し、巨額の利益を得た事例。こうした手法も「錬金術」と称されることがある。
原子力は「現代の錬金術」と表現されることもある。
インターネットは「ビジネスチャンスを生む現代の錬金術」と言われることもある。
1980年代末に日本を襲ったバブル景気は、地価上昇が延々と続き実体の無い投資が続いた。
2007年にアメリカを襲ったサブプライムローン崩壊は、地価上昇が延々と続く想定で高金利の融資が続いた。
驚異的なパフォーマンスをあげる投資家やヘッジファンドを指して錬金術師と呼ぶ。

現代の科学による金の生成

核分裂によるもの
錬金術の目的の一つである「金の生成」は現在では可能とされている。金より原子番号の1つ大きい水銀(原子番号80)にガンマ線を照射すれば、原子核崩壊によって水銀が金に変わる。ただし、十分な量の金を求めるのなら、長い年月と膨大なエネルギーが必要であり、得られる金の時価と比べると金銭的には意味が無いと言える。

核融合によるもの
金を核融合で作ることに関していえば、理論上は可能であっても現実問題としては不可能である。金のように質量数が大きい物質を核融合で生成できるほどの超高エネルギー・温度・圧力を人為的に発生・制御できる技術が無いためである[1]。

いずれにせよ、化学的反応および原子物理学によって卑金属から貴金属を生成することは事実上、不可能、無駄と考えてよいだろう。

錬金術師とされる人物の一覧
比喩的に魔術師とも呼ばれる人物を含む

ヘルメス・トリスメギストス
ニコラ・フラメル
パラケルスス
カリオストロ
サンジェルマン伯爵
アイザック・ニュートン 近代物理学がニュートンに始まるため、「最後の錬金術師」と呼ばれる。
フルカネッリ
ジョン・ディー
ゲオルグ・ファウスト
ローゼン

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