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豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、家康は京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。

天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任され、武蔵大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴姓も与えられた。その後、家康は北条氏と縁戚関係にあった経緯から、北条氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなど秀吉と北条氏との仲介役も務めたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉は北条氏討伐を開始する。家康も豊臣軍の一軍として参戦した(小田原の役)。

なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の関東移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。

その後、家康は秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の五カ国から、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・下野国・上総国・下総国の七カ国に移封された。これは150万石から250万石への類を見ない大幅な加増ではあるが、徳川氏にとっては縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党などによる不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げる訳にもいかず、石高の上昇の割には実収入の増加も見込めない状況であった。しかし家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。
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関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに四公六民という北条氏の定めた税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げがなされるまで継承される事となる。

【家康によって配された有力家臣たち】

上野国
箕輪(後に高崎) 12万石 井伊直政
館林 10万石 榊原康政
厩橋 3.3万石 平岩親吉
白井 3.3万石 本多康重(ただし、1.3万石は父広孝分とされる)
宮崎(小幡) 3万石 奥平信昌
藤岡 3万石 松平康貞
大胡 2万石 牧野康成
吉井 2万石 菅沼定利
総社 1.2万石 諏訪頼水(頼忠説もある)
那波 1万石 松平家乗
沼田 2.7万石 真田信幸
下野国
皆川 1万石 皆川広照
下総国
矢作 4万石 鳥居元忠
臼井 3万石 酒井家次
関宿 2万石 松平康元
古河 3.3万石 本多康重
山崎 1.2万石 岡部長盛(康綱説もある)
蘆戸(阿知戸) 1万石 木曾義昌
守谷 1万石 菅沼定政
多古 1万石 保科正光
佐倉 1万石 三浦義次(久能宗能説もある)
岩富 1万石 北条氏勝
武蔵国
岩付(岩槻) 2万石 高力清長
騎西(寄西) 2万石 松平康重
河越 1万石 酒井重忠
小室 1万石 伊奈忠次
松山 1万石 松平家広
忍 1万石 松平家忠
羽生 1万石 大久保忠隣(2万石とも)
深谷 1万石 松平康忠
東方 1万石 戸田康長
本庄 1万石 小笠原信嶺
阿保 1万石 菅沼定盈
八幡山 1万石 松平清宗
上総国
大多喜 10万石 本多忠勝
久留里 3万石 大須賀忠政
佐貫 2万石 内藤家長
鳴戸(成東) 2万石 石川康通
相模国
小田原 4.5万石 大久保忠世
甘縄 1万石 本多正信
伊豆国
韮山 1万石 内藤信成
文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。渡海せずに済んだのは、小田原の役で先鋒を務めたための優遇措置との見方もある。「際限なき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵で渡海を免れたために、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた[8]。しかし、渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。

文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降は開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[8]。

慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老の一人に家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。

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2009年05月29日 08:37に投稿されたエントリーのページです。

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